【前編】暗黒時代から見続け、38年ぶりの優勝で大興奮。村瀬秀信がベイスターズの「敗戦の記憶」から身につけた、"勝ち負け"を超えた野球の楽しみ方

神奈川県出身で、ベイスターズを中心に野球の魅力を独自の視点で綴っているライターの村瀬秀信。大洋ホエールズから横浜DeNAベイスターズまでの歴史を丹念な取材で紐解いた『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』(双葉社)は代表作だ。そんな村瀬を惹きつけてやまない、ベイスターズとファームの魅力とは――。

■いい球場の条件

大洋ファンになったきっかけは、8歳の頃にオヤジに初めて横浜スタジアムに連れていかれたことです。

ハマスタはきれいだし、もともといいイメージを持っていました。JR関内駅を出てすぐにある交差点の前の信号が大好きなんですよ。あそこの信号待ちで焦らされるじゃないですか。いい球場の条件って、直前に信号があることです。楽天生命パーク宮城や、かつての広島市民球場もそうでしたね。

当時のハマスタは、人工芝が今より蛍光で黄緑がかっていたんですよ。『風の谷のナウシカ』のエンディングの王蟲(オーム)のように、本当に光り輝いて見えました。

当時のユニフォームは白に濃紺。大洋のピッチャーが投げたら、「お前、またノーコンだよ。濃紺なんか着ているからノーコンなんだよ」ってずいぶん野次られたものです。そうやって揶揄されるために濃紺だったのかもしれないですね(笑)

■清原和博のトレードを勝手に画策

僕が子どもの頃に住んでいたのは茅ヶ崎で、周りは巨人、阪神、西武ファンばかりでした。小学5、6年の頃はクラスに大洋ファンが4人だけで、神奈川でも大洋ファンは本当にいなかったですね。

小学校の10分休みになると、教室の後ろの隅に4人で集まってカーテンがあるところに隠れて話していました。

「西武から清原和博を獲るにはどうすればいいかな? こっちが出せるのは欠端光則くらいだよな。プラス、何を出せるか考えよう」

「マルハのパッ缶、50年分でどうだ?」

そうやって小学生らしいトレード話をしていました。マルハは現在のマルハニチロで、大洋漁業が旧社名。パッ缶は缶切りを使わずに空けられる缶詰めのことで、それで清原を獲ろうとか話していました(笑)

ファミコンゲームの「プロ野球ファミリースタジアム(ファミスタ)」が初めて出たのが1986年で、そんな時代の話です。初代ファミスタでパ・リーグをモデルに単独チームとしてあったのは西武だけだったけど、大洋は単独で含まれていたのがちょっと誇らしかったですね。

■敗戦の記憶を重ね、絶頂へ

大洋が"マイナー"っていう意識はあまりなかったです。ファンは少なかったけど、チームが弱いとはあまりわからなかったので。当時はプロ野球を"強い、弱い"という目では見ていなかったのかもしれません。

オヤジにハマスタに連れていかれたことで大洋に興味を持つようになり、特に面白くなったのは1990年代です。でも"夜明け前"は一番厳しかったですね。

1987年に古葉竹識さんが監督になり、広島時代に1975年に球団初優勝に導いた人だから「絶対勝てる」みたいになったんですよ。古葉さんの座右の銘である「耐えて勝つ」と言っていたけど、大洋の成績は5、4、6位。「勝つまで耐える」ってマンガのネタにもなっていましたね。

1992年限りで大洋ホエールズという名称は消滅し、横浜ベイスターズに。「ベ」って何? という感じでビックリでしたよね。

ユニフォームから応援歌までいろいろ変わったけど、近藤昭仁監督になった1993年以降はめちゃくちゃ面白かったんですよ。在任中は5、6、4位と弱かったけれど、谷繁元信や石井琢朗が育っていく、大魔神(佐々木主浩)がだんだん無敵になっていく、盛田幸妃がだんだんバンカラになっていく。その過程が見えました。

そして1998年、38年ぶりの優勝。僕が初めてハマスタに行ったのは1983年で、15年待って"38年ぶりの優勝"です。すごいインパクトで、正直、プロ野球であれ以上の優勝をいまだに見たことがないですよ。僕がベイスターズファンだからかもしれないけど。

こんなに嬉しいなら、あと38年でも全然待てる! 当時はそう思ったけど、長いですね。今からあと15年後。長い。ハレー彗星並みの周期ですよ。

2019年、球団創設70周年を記念して行われた試合前のトークイベントに、ダーリンハニー吉川とともにMCとして出演した村瀬
2019年、球団創設70周年を記念して行われた試合前のトークイベントに、ダーリンハニー吉川とともにMCとして出演した村瀬

写真:本人提供

■画期的だったシーレックスの理念

大洋ファンになり、特に二軍に対して愛着を強めたのは2000年に始まった湘南シーレックスです。理念がすごく良かったんですよ。アメリカのマイナーリーグを手本に、地域密着の独立採算制を日本で初めて打ち出しました。

本拠地である横須賀市の追浜と連携してローカルイベントを実施したり、地元の社会人チームだった日産自動車と定例戦を行ったり。追浜の商店街がすごいバックアップ体制でやっていて、「ここで絶対パレードをする」というのが1つの目的でした。

親会社がDeNAになってから企業努力をすごくしているように思われがちですけど、TBS時代もいろいろ頑張っていたんですよ。今もハマスタの名物になっているイニング間の「ハマスタダンスコンテスト」などのイベントも、シーレックスの試合で実験的にやってみて、行けそうだとなってからハマスタに持っていくというやり方でした。横須賀はいろいろ実験的な催しもあって面白かったですよね。

でも結局、チームが勝たないといろいろ回らないんですよ。理念は素晴らしかったと思うけど、それだけではダメでした。

シーレックスは2009年にあと1勝すればイースタンリーグ優勝に迫った後、怒涛の連敗でひっくり返されました。そして翌年、ベイスターズの球団身売りが現実的になった2010年にシーレックスは消滅します。

最後の試合も見に行ったけど、切なかったですね。結局、優勝できずにパレードも行われませんでした。

■長浦での中畑清との思い出

ベイスターズは2019年、ファームの本拠地「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」を追浜公園に完成させました。屋内練習場や選手寮など充実した設備が整っています。

個人的に二軍で思い出深いのは、以前に拠点としていた「横浜DeNAベイスターズ総合練習場」です。同じ横須賀市の長浦町にあったグラウンドですね。

最寄り駅のJR横須賀線の田浦駅から歩くと、古いトンネルがあってアメリカのロードムービーに出てきそうな雰囲気なんですよ。ちょっと日本離れしている感じで好きでしたね。

海上自衛隊の基地がすぐ横にあって、決まった時間になるとラッパが吹かれるんです。イースタンリーグの試合でピッチャーがKOされたとき、ちょうど「蛍の光」が流れたことがありました。そんなに煽んなくてもいいじゃんって(苦笑)

中畑清さんが監督だった頃に動画でインタビューの撮影をしていると、ちょうど昼のラッパを吹き出したときもありました。清さんが窓をガラッと開けて、「ちょっと今さ、録画しているからさ、ちょっとだけ静かにしてもらっていていいか!?」って言ったら、向こうが「すいません」なんていうこともありました(笑)

長浦のグラウンドは海の真横にあったから寒いんです。2002年に12球団合同トライアウトが開催されたときは、ベテラン選手がずっと焚き火に当たって動かないということもありました(笑)。ブルペンは海の真横にありましたからね。

そんなところまでひっくるめて、僕はベイスターズのファームを楽しんできました。野球のカルチャーは本当に多岐に及ぶので、いろんな楽しみ方がありますよね。個人的には生活に密着してなんぼだと思っているので、長浦で聴いたラッパの音は独特な雰囲気とともに耳に残っていますね。

インタビュー/構成=中島大輔 企画=This、スカパー!

【インタビュー後編はこちら】 ※後編は8月3日11時00分に公開予定

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